
海外のイロイロな人と会社の事を少し書いたので、今回はチョット自分の事を書きます。
人と違うことポイントを見つける事がとても気なるワタシは、
バブル期と言う事も有って、大学生時代に就職活動を全くしなくてアメリカへ行くことにした。
バブル期は、誰でもいつでも就職できた時代。
チョット訳あって帰国した時には超絶不景気。
でも、外国で仕事をするか、外人さんと仕事をしたかった。
英語で仕事をしたかった。

高校の同級生が、シンガポール航空で働いていて、英字新聞の求人欄が外資求人が充実していると知って、
月曜に新聞を買って、
火曜に面接を受けて、
水曜に就職が決まって、
木曜から出社。
その会社が、スイス本社の日本法人で、スイスでは株式公開している大きな会社だと後から知った。
その会社が、ねじの専門商社だった。
入社数日後には、アメリカのグループ会社に輸出した「ねじのクレーム処理」に同行しなさいとなって、名古屋に出張。
その数週間後には、日本のネジ工場に泊まり込みでの工場製造研修という名の毎晩の寮での祝宴。
おっさんの合宿生活に入れられた若いおにーちゃん。
その数か月後に、何かを認められて、台湾研修。
品管、製造技術などの研修で数週間台南に滞在。
入社一年に満たないワタシは、何を気に入られたのか不明だったが、ジャンジャン色々な工場を訪問させられる事になった。
全部、スイス人上司が、
「サイマサン、ドンドンいろんなところへ行ってくださいね」
だった。

その日本法人では、ステンレスのねじ素材の販売もしていた。
日鉄系の伸線メーカーの素材を日本のネジメーカーに販売して、DIN規格のねじを製造してもらって、グループ会社に輸出する。
おかげで、ステンレスの伸線、素材などの技術知識が入ってきた。
入社三年くらいは、ジェットコースターに乗ったように色々な事を経験したので楽しかった。
現在の私とサイマグループは、
「全く、一般の日本のネジ屋さんとは違うコンセプト」
の会社をやっているので、ウケているのだと思う。
他にこんな会社が沢山あったら、埋もれている。
ニッチなねじ屋さんコンセプトは、私が20代の頃から決まっていたのかもしれません。
サイマの三代目として会社を継ぐ決心をしましたが、本業の縫製工場は先代で終了して
三代目の私がネジ屋にサイマを導いてしまいました。
根拠のない自信だけがありましたから・・・・・