3代目社長25周年の記憶 SIMAファスナー事業開始より25年がたちました

縫製事業から、ねじ事業へ

第1話では、私が入社した直後。主に家族の話をしました。なぜ、ねじ屋なのかという話が第2話ですが、これにはサイマ入社前の、外資系企業で働いていた時の経験が大きく私の人生観やビジネス感へ影響しているので、第2話ではその頃の話を。

縫製工場の未来は日本にはないと二十歳前に悟っていた。私の記憶では、入退院を繰り返す創業者の祖父と、唯一働いていた母の記憶しかありません。2代目になる父も、東京で普通の会社員をしていましたから。

アメリカ留学から帰国して5名ほどの小さな貿易会社で働き始めた。不在がちのスイス人がボスで、ねじの専門商社。入社後に、ねじ業界では世界的規模の大手グループだと理解。「外国人と働く」、「外資系企業である」、「英語で仕事」、が重要だったので、ねじには全く関心なし。と言うより、ねじで利益が出る仕組みが理解できなかった。1円以下の単位を使うほど、安すぎる商材。デンマークのグループ会社向けに100万本のねじのINVOICEを作成したら、合計金額が9万円だったことがあった。信じられないくらい安い。安すぎる。なるべく早く、ねじの世界から離れたほうが良いと直感的に感じた。

頭のどこかに実家の斎間商会(旧社名)をどうするのかなと言うのがあり、経営者スキルを身に着けておいたほうが何かの時に役に立つかなと、中小企業診断士の学校、各種勉強会などへ積極的に参加した。特に、「適塾」というグループ名の起業マインドが強い人達への「実家の斎間商会をどうするか」のプレゼンをした時の事を覚えている。本業の縫製事業を続けるとしたらどうするか。現行ビジネスの商品知識は生かせないのか。全く新分野事業を起業するのか。参加者の鋭い質問に、自分の力量の無さを痛感した。

選択肢の中から、結局「ねじ屋」への業態転換を選択した。本業の縫製事業は、未知の領域なので自信がなかった。日本のねじ業界と世界のねじ業界、それぞれの事業規模ごと、それぞれの顧客特性、を考察すると、「手を出してはいけない領域」があるのではないかと推論を立てた。それぞれの事業規模で、投資するリターンの利益の最大化を考えると、手を出してはいけない領域があるのだと確信するようになる。5名ほどの事業規模では勝ち目がない領域。逆に、100名以上の事業規模が手を出すとパフォーマンスが一気に落ちる領域。日本では成功するビジネスモデルでも、海外では全く通用しない領域。海外の成功パターンでも、日本ではNGの領域。

まだ、日本には私一人でも潜り込める領域が、ねじ業界にはあると推測を立てて、さらにその領域に大きな資本が入ってきても、非効率極まりない領域にさらに絞り込み、それが自然な参入障壁になるのではないかと推測した。 25年間何とか生き延びているので、キツイ事も有ったが、事業が継続しているから、縫製工場から、国際派ねじ屋さんへと業態転換して良かったのだろう。

次回第3話では、創業期の自社ブランド発売の頃のお話を...

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