3代目社長25周年の記憶 SIMAファスナー事業開始より25年がたちました

第5話【海外事業所の立ち上げ】

マレーシアとシンガポールの会社はそれぞれ40%の資本を出資していたので、海外進出はしていたが、実務をやっていないので、自分の事業所と言う意識が全くなかった。
埼玉県・与野の殿様と呼ばれていた癖の強すぎるねじの親分から、大阪のねじ屋社長を紹介される。その紹介の仕方も雑で、親分から「斎間よ~、この時間の新幹線で新大阪に来な。オレも新大阪へ行くからよ」と言われてその場で紹介される会社名などを聞くという乱暴さだ。

大手自動車部品の顧客をがっちり掴んでいる会社で、その上海工場を大きくする計画で、大阪のねじ屋さんがどうするか選択を迫られている様子だった。いろいろな事があって、その会社から仕事を頂くようになり、中国出張が激増した。当時の中国は、毎月景色が激変していた。パワーがあった。金がもっと欲しいと言うとてつもないエネルギーを感じた。
会社登記終了まで2年かかり、江蘇省常州市で外資100%で貿易ライセンスを持っている初めての会社だと言われた。この中国子会社は、自動車部品の出荷前検査、各種書類作成の為の会社。品質保証の会社としてスタートした。

最初は日本のねじ屋さん4社で合弁登記したが、現在はサイマの100%出資の子会社。
ねじの仕事もしているが、売り上げの90%以上はねじ外の仕事である。

ミャンマーは長年アメリカの経済制裁を受けていたが、当時の軍事政権との歩み寄りで、アメリカが制裁の一部を緩和したことがあった。そのタイミングで日本からも、大挙して日本人が最大都市ヤンゴンを中心に激増。神奈川県のミッション団に参加して、その時のあるトラブルからヤンゴン在住のカウン一家と仲良くなり、ヤンゴンでの起業をする準備開始。3年ほど出張を重ねたが、タイ人と中国人との競争には勝てないなと見切りをつけた。その数年後に、クーデターがあってと...今でも日本人の知り合いがヤンゴンでビジネスをしています。

インドはニューデリーでの展示会参加をきっかけにインド人セールスレップとインド出張を重ねたが、この活動も3年で見切りをつけた。その後にコロナ騒動勃発だったので、結果的に身軽でよかった。

海外事業は失敗のほうがダントツ多い。しかし、自分で失敗しないと、他人の失敗からは、たぶん学びが薄いのだと思うので、納得するしかない。

次回、第6話は、トルクアナライザーとの出会いをお話します。

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